大日堂舞楽の由緒と概要

大日堂舞楽(養老礼祭)の起源は、元正天皇の養老二年(西暦718年)、天皇の勅令により大日堂(大日霊貴神社)が再建された際に、名僧行基とともに都から下向した楽人が舞った祝賀の舞楽が里人に伝えられたものと言われ、今日まで伝承されてきました。その年の国土の平安・五穀豊穣・無病息災などの祈りを込めて、毎年正月二日に奉納されています。
養老年間に始まったときから、舞楽を行なう人たちには土地が与えられ、地付神役とされてきた。江戸時代も南部藩からも田畑などが与えられるなど、崇敬されてきました。昭和二十七年(西暦1952年)、当時の文部省から無形文化財の指定を受けたのを期に、大日堂舞楽保存会を結成し、舞楽の伝承に努めています。昭和五十一年(西暦1976年)には重要無形民俗文化財に指定され、平成二十一年(西暦2009年)にユネスコ無形文化遺産に登録されました。
大日堂舞楽は、舞人全員が舞う神子舞(みこまい)・神名手舞(かなてまい)、本舞と呼ばれる七つの舞が四つの集落により奉納されます。小豆沢(あずきざわ)は、権現舞(ごんげんまい)と田楽舞(でんがくまい)。大里(おおさと)は、駒舞(こままい)、鳥舞(とりまい)、工匠舞(こうしょうまい)。長嶺は、烏遍舞(うへんまい)。谷内は、五大尊舞(ごだいそんまい)を担当しています。
舞楽を行なう人たちは、厳しい精進潔斎をして、舞楽にのぞみます。当日は、早朝に各集落ごとに決められたところに集まり、身を清め、集落の神社などで舞楽を舞ったあと、行列を組んで大日霊貴神社へ向かいます。境内に参集し、整列するとお祓いを受け、地蔵舞(旧地蔵堂の前で行なう権現舞)を舞います。これが終わると幡笛に合わせて行列を組んで境内を3周する幡綜(はたへい)、次いで神社の階下で花舞と呼ばれる神子舞・神名手舞・権現舞が行なわれます。花舞と同時に堂内では籾押し(もみおし)という農作業を踊りにしたものが舞われます。花舞を終えた能衆は堂の外廊を3周すると、龍神幡を持った若者たちが道内に走り込み、幡を殿上へさし上げ、さらに梁にあげられて掲げられます。各集落の能人の神子舞・神名手舞につづき、大小行事により舞台が清められたあと、宮司により祝詞が奏上され、7つの本舞が奉納されます。

正月二日のタイムスケジュール

8:00
修祓の儀(しゅばつのぎ)
地蔵舞(権現舞)
8:10
幡綜(はたへい)
花舞(神子舞、神名手舞、権現舞)
8:20
籾押し
御上落(ごじょうらく)
8:30
幡上げ(はたあげ)
8:50
神子舞(みこまい)
9:00
神名手舞(かなてまい)
大小行事(だいしょうぎょうじ)
祭式(修法)
9:40
権現舞(ごんげんまい)   以下、本舞
9:50
駒舞(こままい)
10:15
烏遍舞(うへんまい)
10:30
鳥舞(とりまい)
10:50
五大尊舞(ごだいそんまい)
11:20
工匠舞(こうしょうまい)
11:30
田楽舞(でんがくまい)





ダンブリ長者の伝説

昔々、小豆沢に太郎という若者が年老いた父親と二人で暮らしていました。太郎は、大変正直者で親孝行、しかもよく働くので村の評判でしたが、貧しかったので食べるものにも不自由な暮らしを心の中で嘆いておりました。しかし、父親にはできるだけ不自由な思いをさせたくないと、一生懸命働いておりました。
また同じ頃、独鈷(とっこ:現在の秋田県比内町)というところに、徳子という娘とその父母の三人が暮らしていました。徳子はたいそう親孝行な娘で村の評判でした。徳子が年頃になったとき、両親が相次いで亡くなりました。徳子はそれを毎日嘆き悲しんでいました。
 ある晩のこと、徳子は夢を見ました。夢の中に神様があらわれ、「おまえは、これから直ぐに家の前の小川を下り、大きな川と合流するところからその大きな川をさかのぼり、日が暮れる頃に一人の若者と出会うであろう。その若者と夫婦になれば、かならず幸せになれるだろう」といって夢の中から消えていきました。
 徳子は、夢にあらわれた神様の言ったとおり次の朝早く、住み慣れた家や村をあとにして小川をくだり、大きな川をさか上りました。途中道らしきものがないところを苦労して歩き、日の暮れるところまで来たのであたりを見回しました。すると、近くで一人の若者が働いていました。徳子はこの人こそ神様がお知らせして下さった若者に違いないと思い、その若者に今までのことを残らずお話しました。その若者こそ太郎であったのです。夕暮れでもあったので、太郎は徳子を家につれて帰り、父親にこれまでのことを話しました。父親は神様のめぐり合わせと喜んで夫婦になることに賛成しました。
 二人は中睦まじく、年老いた父親をいたわりながら毎日を過ごしておりました。しかし、暮らしは一向に変わらず貧乏でした。明日は元旦だというのに神様に御挙げするものもお酒もありませんでした。親子夫婦は自分達の不幸を嘆き悲しみながら床につきました。その夜、太郎は夢を見ました。夢の中に神様があらわれ、「おまえ達の住むところはここではない。この川上に行って住めば必ず幸せになれるだろう。早くこの地を去れ、このことは他人には言ってはならん」と言い残すと、すっと消えていってしまいました。
太郎ははっと目が覚めました。あたりを見回すともう夜が明けはじめていました。太郎は驚いて、「これ徳子、起きてけれ。俺は今不思議な夢を見た」と言えば徳子も目を覚まし、「私も今まで夢を見ていたす。」と答えて辺りを見回しました。太郎は、「で、どんな夢を見たか」と尋ねると、徳子は今まで見た夢のことを話しました。それは太郎の見た夢と全く同じでした。太郎夫婦は神様に感謝のお祈りを捧げました。一家は、この地を去ることを決心し、これまでお世話になった村人にお別れのあいさつに回りました。村人は、正直者で働き者の一家のためお別れの酒盛りをして別れを惜しんでくれました。
 そして、翌正月二日太郎一家は、住み慣れた小豆沢の村をあとに、川上に上りはじめました。太郎夫婦は険しい山道を老父をいたわりながら上流へと上り、日の暮れる頃川上の平間田(ひらまた)という村にたどりつきました。そして、村長の家に行き、この村に住むことができるようお願いしました。村長は村人と相談して太郎がこの村に住むことを許しました。太郎は一生懸命働きました。しかし中々貧乏から抜け出すことはできませんでしたが、老父には不自由な思いをさせまいと努めました。
ダンブリとは鹿角地方の方言でとんぼのこと太郎夫婦が平間田に来てから数年が過ぎたある日のこと、いつもの通り二人は畑に出て働き昼休みをしていました。太郎は疲れてうとうとと寝入ってしまいました。ちょうどその時、どこからともなく一匹のダンブリ(とんぼ)が飛んできて、太郎の唇に尾をつけてどこかへ飛んでいき、また戻ってきて同じことを繰り返しました。そしてそのつど「朝日夕日輝くところに泉湧いている」というささやきが聞こえてきました。その声にふと目を覚ました太郎は、「今ここに誰かこなかったか」と徳子に聞きました。「いや、誰も来なかった。ただ、あなたの唇にダンブリが飛んできて尻尾をつけていきました」と徳子は答えました。太郎は「ああ、そうだったか、俺は今、生まれてから飲んだこともない甘い酒を飲んでいた夢を見た。今もその味が口に残っているようだ」といって唇をなめまわしました。そして太郎は「神様のお恵みに違いない。ダンブリの行方を追ってみよう」と夫婦連れ立ってダンブリの飛ぶほうへ行ってみました。するとそこには一筋の滝があり、無数のダンブリが飛び回っていました。太郎はその滝の水をすくって飲んでみると、それはなんと先ほど夢で飲んだ酒と全く同じ酒でありました。
 この酒は神様が私どもに与えて下さったものだろうと感謝しながら、水桶に汲んで家に帰り、お酒の好きな父親に飲ませました。するとどうでしょう。しわだらけの顔にしわがなくなり、曲がっていた腰もまっすぐになり、白髪もなくなって父親は若返りました。
 この話はたちまち広がり、酒と金銀など珍しいものと交換してもらう人がたくさんあったので、太郎一家は、国一番の金持ちになりました。
 今までの長い間の貧乏暮らしは、全くうそのような幸せな毎日の暮らしが続きました。しかし太郎一家にただ一つ不足なのは子供がなかったことでした。そこで太郎夫婦は神様に子供が授かるように七日間お祈りをしました。それから一年後、太郎夫婦の間に玉のような女の子が生まれました。そしてその名前を「桂子」と名付けました。
 桂子は大きくなるにしたがって、益々美しくいろいろな才能を身につけた娘に成長し、若者の憧れの的になりました。このことがいつとはなしに都に伝わりました。
 ある日、郡司から太郎夫婦のところに知らせがあり、桂子を都に上がらせ、宮中に仕えさせるようにとのことでありました。せっかく授かった一人娘と別れて暮らすことを、太郎夫婦は悲しく思いましたが、支度を整えて都に上らせました。都につくと直ちに宮中に呼ばれ帝(天皇)にお目どうり許されました。帝から「長い間の旅路ご苦労であった。桂子は吉祥姫と名を改め、宮中に仕えよ。お前(太郎)には、「ダンブリ長者」という呼び名をやろう」とのお言葉がありました。長者の呼び名をもらった太郎は喜びとともに一人娘と別れて暮らす寂しさを心にしながら家に帰りました。
 家に帰ったダンブリ長者は、近くの村人を集めて、長者の呼び名をもらったお祝いの酒盛りを七日七夜の間行いました。長者のこのような酒盛りのときは、余興として、籾押し、幡揚げ、神子舞、神名手舞、曼陀羅振り、権現舞、駒舞、烏遍舞、鳥舞、五大尊舞、工匠舞、田楽舞などが出されました(これは何れも当時の長者の日常の暮らしを舞にしたものだと云われ、現在の大日堂舞楽のもとになったものと云われています)。
 長者の呼び名を受けたお祝いから数ヶ月すると、長者の父親が百十歳で亡くなりました。それから何年か立ちました。長者夫婦は年老いていきました。一人娘と別れて暮す寂しさ、父親を失った悲しさが重なって間もなく亡くなってしまいました。
 死ぬ間際に、日頃信頼していた四人の頭を呼び「俺が死んだらそのことを都の吉祥姫に伝えてくれ。また、お前達はこれまでのように良くつとめてこの家が長く続くようにやってくれ。俺の亡骸は小豆沢の父親のそばに葬ってくれ」と遺言して亡くなりました。
 長者夫婦の亡骸は遺言どおりに小豆沢に葬られました。一方都で長者夫婦の死を知らされた吉祥姫はたいそう悲しみました。帝は吉祥姫に「これまで父母のそばにいて孝行できなかったことは残念だが、父母(長者)の徳を後の世まで伝えるとともに、長者の信仰しておられた神を祭るのも孝行の一つであろう」とおおせられ、国司に命じて小豆沢にお宮を立てました。これが今の大日堂だといわれています。
 この大日堂で毎年一月二日に、先にあげた十二の舞が行われ、昔を偲ばせてくれます。また都にあった吉祥姫も生まれ故郷思いがたちがたく「私の死後亡骸は、みちのくの父母の地に葬ってください」と遺言して亡くなりました。亡骸は遺言どおりにはるばる都から故郷の父母の墓の近くに葬られました。その時都から杖にしてきたイチョウの枝を墓に立てたところ、大きなイチョウの木になり、吉祥院の境内に茂ったイチョウの木だと伝えられています。